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75年前の8月1日 ~記憶に残す大切さ~

さて、今回の記事は通常の構成は違う内容となります。

普段であれば『魅力的な富山』を紹介するための構成で作成していますが、今回の記事は富山県で75年前にあった忘れてはいけない記憶を書いていこうと思います。

 

史実的な内容になってしまいますが、最後までご覧いただけますと幸いです。

 

 

昭和20年8月1日の富山大空襲

75年前の8月1日深夜、太平洋戦争(第二次世界大戦)末期に富山を襲ったのがアメリカ軍からの空襲です。

広島と長崎に投下された原子爆弾を除くと地方都市に対しての空襲としては最も被害の大きい空襲となります。

 

アメリカ軍は180機近くにもなるB29の編隊で約2時間にわたり旧富山市(現在の富山市は合併により拡大しているので今回は旧富山市と表記しております)に集束焼夷弾・ナパーム焼夷弾・集束ナパーム焼夷弾を約1万2000発も投下し、旧富山市の99.5%が焼失し焦土となりました。

この空襲により約3,000人が亡くなり90,000人近くの負傷者が出て、甚大な被害となりました。

 

空襲警報が鳴り、多くの人々が建物内から外に逃げ出すものの、隙間なく降り注ぐ焼夷弾に多くの人々が犠牲になってしまったのです。

昨年亡くなった私の祖母は当時16歳で、旧富山市から離れた黒部市に住んでいたものの、空襲の際に旧富山市の空が真っ赤になっていたのを覚えていると昔語ってくれていました。

 

尚、この空襲により旧富山市にあった建物という建物が焼失してしまいましたが、奇跡的に現在も現存する建物が富山県庁本館(1枚目の書写:富山県富山市新総曲輪1番7号)と富山電気ビルディング(富山県富山市桜橋通り3番1号)の2つになります。

この2つの建物は国の登録有形文化財に登録されていて一般の方でも入れる貴重な建物です。

 

 

思い出すことの意味

私自身、富山で30年近く生活をしていましたが、この富山大空襲に関してはあまり知識がありませんでした。

地元に居たときは地元ニュースで追悼の式典映像などをみて「あ、今日だったか」と思い出すくらいで…。

 

今回はせっかく自分で発信できるツールがあるのだからと思い、この富山大空襲に関して

簡単ではあるものの少し調べて記事にしてみました。

 

地元富山でも富山大空襲を経験した方々の高齢化が進み、語り部の方々が少なくなってきていて、今後、後世にどのようにして伝え・残していくかを苦慮しているようです。

 

自分には知識が多くあるわけでもなく、人に伝えるというのは難しいですが、『思い出す』という事は出来るのではないかと考えています。

地元を離れたことによって中々最新の地元ニュースを見る・聞くことは難しいですが、この8月1に起こったことを毎年のこの日に思い出して想いを寄せることは出来ると思います。

 

富山大空襲で焦土と化した旧富山市が、現在のように住みやすい明るい街『富山』になったのは多くの犠牲の上に先人たちの努力があったからこそという思いを年に1回は思い出すようにしていければと考えています。

 

今年はコロナウイルスの影響で8月1日の式典も縮小となったうえ、昭和22年から鎮魂・復興・平和の願いを込めて8月1日に行われている『北日本新聞納涼花火大会』も中止になったという事で寂しい夏になってしまいますが、来年は平和の願いが込められた大輪が富山の夏の夜空を彩ることを願っています。

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